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2016年の迷いの森事件は、1981年でいうなら(汗)夕日の浜辺事件に相当すると思うのだった。
戦わない、という道を選ぼうとしてしまう9&3。
それが迷い、ということなのだけど。
森事件の方が、一見009的にはスタンダードに見える。
戦いたくない、と言うのはいつもお嬢さんだからだ。原作でもそうだし、平ゼロもそうだった。
そして、森でも、まずお嬢さんが戦わない、という道を選ぼうとする。ってか、たぶん選ぶ。
一方、浜辺事件は迷うのはしまむらだったりするので、こちらはちょっと見だと異質な感じがする。
なんといっても、しまむらは、50年以上サイボーグをやっている……けれど、お嬢さんを003でなく、フツーの女の子にしてあげたいなんて思ったのは、おそらく後にも先にもあの1981年の浜辺事件の時だけだったと思う(悩)
ヨミのとき、たしかに「踊っている君の方が好き」とは言った。ほんとうのところは好き、と自分の好み(?)を言ったものの、そうしろ、そうしてほしいと言ったわけではない。むしろ、
しかたがないから諦める
と言ったのだ。
ちなみに、そう言われたお嬢さんは迷わず003としてしまむらを追う。
で、超銀でも、お嬢さんはしまむらを殴って003であろうとする。
そういう意味では、お嬢さん側から見たとき、この二つのエピソードは同質のものといえる。
お嬢さんはなぜ003であろうとするのか……というと、しまむらを好きだからだよな、と、とりあえず思う。
でも、それだけでは答にならない。
フツーの女の子としてしまむらを好きでいることは、できるのだ。よーくわかってるはずですお嬢さん(しみじみ)
ヨミ編のお嬢さんの翻意っぷりはヒントになる。
超銀お嬢さんが、しまむらを殴る!という異常な反応を見せたことも、やはりヒントとなる。
お嬢さんは置いて行かれるのがイヤだったとか、怖かったとか……ということだけでなく。
自分が003でなくなることを拒絶したのだ。
ヨミ編のしまむらは言った。
戦場を駆ける君より、踊っている君のほうが好き。
超銀しまむらも言った。
君には戦いは似合わない。
ヨミ編しまむらの方がハッキリしている。
つまり、戦場を駆けるお嬢さんと、踊っているお嬢さんがいるのだ。
超銀しまむらは「似合う」という言葉を使ってどっちもお嬢さんという一人の女性であるよーな言い方をしていたけど、これは日和見だ。だからお嬢さんに殴られた。たぶん。
そして、戦場を駆けるお嬢さんは003だが、踊っているお嬢さんは普通の女の子なのだ。
普通の女の子を、009は必要としていない。
それは庇護の対象でしかない。
お嬢さんはそれを全力で拒絶する。
苦しみながらも、お嬢さんは003であろうとするのだった。
お嬢さんは戦いたくないのに、なぜ003であろうとするのか。
それは、しまむらが009であり、009は003しか必要としていないから……なのだ。
迷いの森のお嬢さんは、違う。
お嬢さんはあのエピソードの間中、ずーーっと迷いの中にいたのだ、という解釈に最終的にはなるだろうけれど、少なくともおじいさんの手をとり、人間に戻って「ジョー、私、本当に嬉しい」と晴れ晴れと語ったお嬢さん、あのときのあの一瞬、お嬢さんは迷っている状態ではなかった。
後から見て、あれは迷いの途中だった……と思ったとしても、その一瞬一瞬、人は本当の選択をし続けているのだから。
あのとき、お嬢さんは、たしかに普通の女の子になることを選んだのだ。(汗)
50年を超えるしまむら&お嬢さんの間で初めて起きたことだった……と思う。
普通の女の子になりたい、と泣くのはいつもお嬢さんで、ソレを理解し、慰めるのはしまむらだった。いつもそうだったけれど……。
でも、お嬢さんが普通の女の子であろうとしたことは一度もなかったし。
そして前述のとおり、しまむらだってお嬢さんに普通の女の子であってほしいと思ったことは超銀のアレをのぞいて(悩)一度もなかったのだ。
…………。ちょっと、どーするのしまむら(汗)
この事態の前で、なんとしまむらはほぼ無力に等しい(倒)
お嬢さんの変化に驚き、戸惑いはするものの、それだけで、あとはもーなすがまま。
お嬢さんを得意のタラシ光線で変心させる(怒)どころか、「普通の女の子」のお願いを断ることのできないしまむらはお嬢さんに導かれ、自分自身もあっさり力を失うのだった。
まさか、と思うけど。
まさか。
003が003でなくなると同時に009も009でなくなる!
ということなのか?
…………。えええええええええ(汗)
お嬢さんが「踊っている君」になってしまうと「003」はどうなるのか。
消える、だろう。これまでと逆になるのだ。
やがて、銃撃が始まる。
これは幻覚なのかというと、そうではない。カタリーナさんが指揮をしているからだ。
自分が生身の人間だと思い込んでいるしまむらは、それでも精一杯お嬢さんをかばう。さらに仲間を放っておけない!と思う。
ジェロさんに「君は本当の戦士だ、信じているぞ」とまで言われる。
しまむらは「僕も戦う!」と決意し、それだけではなくその通りに行動する。
が、それでも、やはり009ではないのだ!(汗)
……なんで?(悩)
これでは選んだことにならないってこと?
やがて、お嬢さんが銃撃にさらされる。
お嬢さんの体は、サイボーグ体であってもたぶん銃弾に耐えられない。
お嬢さんは、しまむらの目の前で撃ち抜かれる。
そのとき、しまむらは「選ぶ」のだ。
「初めて加速装置がほしいと思った」と、しまむら自身もは述懐する。その通りなのだろう。
お嬢さんの死をしまむらは受け入れない。そのためには009になるしかない。
わかりやすい……ようだが、ここでカタリーナさんが事態をもっとややこしく……というか、重くしてしまう。
というのは、このときしまむらがやったのは009としての「加速」ではなかった……というのだ。
しまむらは時間を巻き戻したとカタリーナさんは言う。
つまり、お嬢さんは既に撃ち抜かれていた。
それを、しまむらがほんのわずかだが時間を巻き戻して「なかったこと」にし……次の瞬間、加速装置でお嬢さんを救い出した。
お嬢さんは、しまむらに「助けてもらった」と認識していた。
いつものように助けてもらった、と。
お嬢さんは、撃たれたと感じていない。
だって、撃たれていないのだ(汗)
うーーーーーんと速く加速すれば、時間を巻き戻せる?
…………。
映像だから、そういう表現は可能……だけど、そんなことが可能であるはずはない。
あるはずはない、とカタリーナさんは動揺する。
カタリーナさんは理性の人だ。
それでも無意識下でしまむらのタラシ光線にやられてはいただろうが、理性はそれを最後まで認めなかった。
だから、カタリーナさんを揺るがし、変えたのは恋ではない。
しまむらのこの「ありえない能力」だった。
これを知っているのはカタリーナさんとしまむらのみ。そういう意味でも「恋」に似ている。
ちなみに、最後にカタリーナさんは自我を失った状態で、はからずもお嬢さんにしまむらの加速空間を体験させることになるが、それとこれは全く違うものだ。
ちなみにそのとき、ダメ押しするのが米袋。
カタリーナさんが絶命したとき、しまむらはこのことを思い出したのだろう。彼女を生き返らすことはできないかと考えてしまう。それを米袋がきっぱり否定する。
起きてしまった事象は変えられない。
…………。ですよね(悩)
そしたら、アレは、なんだったのだ?????(汗)
実は、映画の中でそれに対する答は示されていない。おそらく意図的に示されていない。
カタリーナさんにもわからず、しまむらにもわからず、他の者にはそういうことがあった、ということさえ認められないまま、物語は終わった。
しかし。
カタリーナさんがエンペラーの計画を揺るがす存在としてしまむらを意識したのは、このことがあったからで。
そして、その心のまま動いたカタリーナさんはエンペラーの計画をしまむらたちに伝え、彼の破滅を呼んだ。恋はしていないのだが、それと同質のことが起きたのだった。
この物語を本当の意味で動かし、終わらせ、ついでにいうとありえないはずだったしまむらの勝利をもたらしたのは、この「なんだったのかわからない奇跡」だ。これがなければ、しまむらたちはなすすべもなく、人類はエンペラーの計画に落ちていたはずだ。
それは物語の最後まで、物語が終わっても「なんだったのかわからない」こととして残された。
なるべく目立たないように、でもしっかり残されたのだった。
ヘタをすると、観客に何かのミスなんじゃないかと思わせるかもしれないぐらいしっかり残された。
なんだったのかわからない……といっても、ミスやでたらめではないと思われる決定的な要因は、その現場にお嬢さんが関わっているということだ。
あの、撃たれたお嬢さんは既に003ではなかった。
003は、既に消えて……というか、死んでいた。
もちろん、それはまだ「幻影」の中の出来事だ。お嬢さんが選び直し、しまむらが選び直せば修復できる。しかし、とりあえずそれは起きた。お嬢さんもしまむらも経験しなかったことが起き、それによってわかったことがある。
003が死ねば、009も死ぬ。
あなたがいなければ生きていられない(涙)とかいうレベルの話ではない。
勇気も愛もへったくれもない。
003が003でなくなったとき……彼女が死んだとき、009もあっさり死んだではないか。
まだそれはあくまで幻想の中での話だ。
しかし、003の肉体が死んでしまったら修正は永久に不可能となる。
しまむらは009として生きることをいつ選んだのか。既に選んでいたのではないか。僕も戦う、と彼は言い、銃弾の中に武器を持って飛び出したのだから。
でも、009には戻れなかった。お嬢さんが逃げるからだ。
お嬢さんは逃げないはずだった。しまむらを愛しているからだ。
この場面でもそこは変わらない。お嬢さんはしまむらを愛している。
だから、彼女は二人が離れることを望まない。
一緒に人間として生きましょう、その方が私たちは幸せになれる……と、お嬢さんは言う。
現実としては銃撃を受け、その幸せは成立しなかった。
が、そんなことは、言ってはなんだがよくあることだ。
古今東西を問わず、山のようにある恋人たちの悲劇であるし、悲劇であるからといって恋そのものが不幸かというと、そんなことはない。
このお嬢さんが003に戻らなければ、しまむらは009になれないのだ。
彼の意志だけでは何も選べない!
そして、もう一つの問題がある。
しまむらが009に戻ったとき、なぜかお嬢さんも同時に、ほとんど自動的に003に戻った。その葛藤や悲しみは描かれない。彼女はあっさりと003である自分を受け入れる。ということはつまり、今度は普通の女の子であるフランソワーズが消えているのだ。
ここに、ほんのわずか、わずかな亀裂がある。
「時間を戻す」直前、普通の女の子であるフランソワーズは銃弾を受け、既に死んでいた……わけで。
彼女が死ねば、003が復活する……可能性がもちろんその死の瞬間にのみだが、彼女の意志とは関係なく生まれるのではないか。
あのおじいさんの力で、お嬢さんは50年以上(怒)封じ込まれていた「普通の女の子」を選び「003」を殺した。
しかし、「009」はそれを認めなかった。
認めないとはいっても、003を動かせるのはお嬢さんだけだ。しまむらには何もできない。
だから、009に戻りたかった彼は「普通の女の子」が死ぬのを待つしかなかった。そして、ほどなく訪れたそのチャンス(倒)その瞬間をとらえ、「003」を手元に引き戻した。
或いは、こう考えてもよい。
003と009はブレスドじいさんの力で、一瞬、他次元宇宙みたいなのを経験したのだ……と。
009がやったのは時間の巻き戻しではなく、別宇宙へのスライドだった……とか(悩)
とにかく、「普通の女の子」のフランソワーズは死ななければならなかった。
それが003を取り戻すための必要条件であり、後は009次第、やれるものならやってみろってことだったとか(しみじみ)
…………。
説明がついたわけではない。やっぱり変(悩)
変でいいのだと思う。
変だから、物語の核……奇跡の核となり得る。
よくやったなあ……と思う。
変でなければならないことを強行するのだから、どこかに理屈を超えた納得要因がなければならない。
ほとんどの場合、それは「愛」だろうと思う。
しまむらはなぜ時間を戻す、みたいなことをしちゃったのか。
その理由は示されない。
でも、彼は003の死を受け入れられなかったってことで……あ、愛ね、ああそれだ、と一応解釈しようと思えばできる描き方になっている。そこでとどまろうと思えばとどまれる。009と003はそれだけ自明の、描く必要のないカップルだという共通認識がぼんやりだが(汗)あるからだと思う。そうでなければこの表現はたぶんできない。
この映画のスゴイところはわかりやすく「愛」を現象として描くことなく、その本質を再構築しようとしているところだと思う。REのトモエちゃんでやろうとしたことに似ているのかもしれないが、こっちの方がずっと大胆で挑戦的だ。
しまむらとお嬢さんが恋人同士だということを、映画の設定ではハッキリ言わないように言わないようにしていたのではないかと思うのだった。
お嬢さんの人物紹介で「009への愛(好意)」が書かれていないということに3至上主義者として微妙な期待(ってなに)を抱いていたのだけど、抱いた甲斐はあったのかも。
愛とは何か。
というか、愛だと私たちがなんとなく思っていることは何か。
この場面でしまむらとお嬢さんとカタリーナさんが示してくれた答は、
自分でありながら自分ではない他者とのつながり
ってことなのかな……と思う。そう言ってしまえば、別に新しい定義ではない。
が、石ノ森さんが神々との闘いで描こうとしたテーマはこれだったのではないかと思う。
個と個がつながる。
本当の自己犠牲によって個が連帯する。
93のつながりは、これだと思う。
恋愛ではない。
恋愛もそのひとうの形であるが、そのさらに原点にある関係を93は目指しているのだ。
だから、むしろ彼らの恋愛は描かなれい。それだけではないからだ。
それをもっと実験的に描いたのがカタリーナさんとしまむらの関係だろう。
もちろん、恋は成立しない。恋ではないからだ。
そして、おそらく現実の関係としても成立しがたい。あまりに観念的すぎて、現実では継続できない。
カタリーナさんとしまむらは、この作品における唯一のよくわからない特異点、時間の巻き戻しを共有した。
その事実そのものがこの映画の世界に生きる人間であるカタリーナさんを変えた。
カタリーナさんは「理性」の人だったが、そこに「何か」が生まれた。
「何か」を象徴するのは、しまむらに銃を向けた彼女が流した涙だろう。
それは「感情」だと言ってもいいが、たぶんもう少し説明が必要だという気もする。
カタリーナさんが説明できなかったそれをお嬢さんが代弁する。
一番大事なこと……大切な人を、人間は忘れない。
お嬢さんはソレを知っている。同じ人に対する同じ思いを持っているから、お嬢さんはカタリーナさんの思いを代弁できる。
本当をいうと、ちょっとずれているのかもしれない。
でも、お嬢さんも注意深く「愛」という言葉を使わない。
使いたくなかった(踊)と解釈することも可能だが、たぶんそうではない。
それなら、お嬢さんがしまむらに抱く思いも、おそらく「愛」では説明しきれない思いなのだ。
しまむらが起こしたあの奇跡はなんだったのか。
おそらく、再現は不可能だ。少なくとも映画はそのように終わっている。
カタリーナさんが死んだからだ。
あらゆる愛を表現する場面で、それに似た奇跡はごく当然のように私たちを感動させる。
奇跡は、一瞬だ。決して続かない。
だから、その場面は通り過ぎるものでなければならない。
一番安易な(汗)やり方は、恋人の別れを描くことだ。死別が一番わかりやすい。
93がおかしい(倒)のは、その一瞬を続けようとしていることなのだ。
しまむらがおかしい理由もそこにある。
代償として、彼らに恋愛は許されない。恋愛は終わるものだからだ。
93だけではさすがにツラすぎる話だが、彼らにはそれに近い「仲間」もいて、彼らと似たようなことを一緒に目指してくれる。助かるのだった。
そして、93にソレがある、ということを示すために、ゲストヒロインが登場する。
彼女たちは009と恋をする。
それを描く目的は一つ。003と009の関係を相対化し、可視化することだ。
だから、どーしても003は巻き込まれる(怒)
一方で003に恋する男性が描かれないのは、おそらく003の方がサイボーグでありたい・闘いたいという意志を持っていない方の個体だからだ。その彼女に、同じ意志を持つ別の男性が近づいたら、実は簡単に恋が発生してしまう。009が妨害者、悪役になってしまう(踊)それは見たい!<やめれ(汗)
実際には009が主人公なので、そんな恋物語はいくら悲劇的であろうと美しく描こうと、受け入れられるものではない(嘆)私はだいじょぶですが<いいから(汗)
……とか思うのだった。
で、ついでに(汗)思うのは。
せっかくここまで(?)やったんだから、もっと何か副産物が出てもいいんじゃないか……ってことで。
もちろん、わらわら出てくる。それはもー、ものすごく出てくる。
燃料ありがとうございます公式!!!!なのだった(踊)
そのひとつとして。
やっぱり井上さんその言い方やめれ(汗)のことを、どーしても、どーしても、どーしても考えてしまうのだった!!!!!ちょっと忌々しくはありますが、しまむらが確実に不幸になりそうな展開なのですごくやる気が出る♪(踊)
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