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トラウマ

最近、「文豪ストレイドッグ」を一生懸命読んでいるのだった(しみじみ)

へんな題名ー(悩)と思って、ぼーっと動画を見てみたら、別に文豪の話ではなかった(倒)
でも、太宰治がダルそーに「人間失格」とつぶやきつつ中原中也をおちょくったり、宮沢賢治が「雨ニモ負ケズ」をバックにたのしそーに道路標識を振り回したりするのを眺めたり、おっかない与謝野晶子姐さんや、もーどーしよーもなくビョーキな芥川龍之介に転がったりしているうちに、だんだん楽しくなってきたのだった(しみじみ)ちょろいです(しみじみじみ)

で、主人公の中島敦(倒)は孤児院で虐げられた過去を持っていたりするのだった!

……これって、新ゼロしまむら?(汗)

と、さすがに私もいい年になっただけあって(悩)すぐに思い当たるほどイカれてはいなかった(涙)のだけど、先日、その敦くんが過去の清算をする……みたいなエピソードを読んだとき、あーそういえば新ゼロしまむらも、なんかいじめられてたよなー(悩)なんて思い出したのだった。

昭和のしまむらは、なんといっても孤児だったし、なんといっても不良で少年鑑別所だった。
新ゼロの場合、それらがグレードアップ(え)され、しまむらは少年院でやたらいじめられた……みたいな設定になっていた。

新ゼロから入ったので、まーしまむらってそういうもんだよね、と特に疑問もなく思っていた私だったけれど、実のところ、そこまで徹底して(?)なんだか薄暗い過去しつこく(涙)描写されていたのは新ゼロしまむらぐらいだったようにも思う。

とはいえ、それでもさすがにしまむらがいじめられていたのは少年院での話で、孤児院でいじめられていたわけではなかった。思えば、昭和の頃はまだコドモというのが聖域で、とにかくコドモは絶対的に清らかなモノであり、そのコドモを育てる人たちというのも原則としては清らかでなければならなかった……ってことなのかもしれない。
そういう意味では敦くんのほうがなんというか救いのない不幸を背負っているということなのだろう(涙)

とか思わせておきながら、21世紀でも、孤児院をそのような救いのない場所として描ききるのには無理があったらしい。
問題のエピソードは、敦くんをいじめぬき、未だに恐怖と憎悪の対象である孤児院の院長先生(男性)が死に、その死の真相を敦くんが探る……というもので、実は院長先生は、彼をわけもなくいじめていたわけではなかった!……みたいな結末となっている。
ってことは感動ストーリーといえばそうなのかもしれないが、それほど単純な話ではない(悩)

院長先生をひたすら恐れ、憎んでいただけだった敦くんは、調査を進めるうちに混乱していく。
院長先生には思いもよらなかった一面があって、実は……ということがわかってくると、単純に憎むことができなくなり……でも、だからといって、彼におわされた心の傷が癒えるというわけでもなく、彼を許す気になるわけでもない。

そんな敦くんの混乱ぶりを、太宰さんが「彼には必要な混乱」と言うのだった。
敦くんのライバルである芥川くんは一足早く院長先生について知っていて、彼のことを「おまえの師だ」と敦くんに告げるし、太宰さんは最後に、彼は敦くんの「父親」だった、みたいなことを暗示して去る。

最近のマンガやアニメによくある、とにかくやたらと流血したり内臓が出たり(倒)……みたいな残忍性を無機的に表現するような雰囲気がこのマンガにもある。敦くんが院長先生から受けた暴力は、本当に苛烈で、おぞましい。
だから、いくら「いい話」的な展開になっても、やっぱり敦くんは院長先生を許す気になれず、混乱する。
エピソードはそのまま終わり、そうはいっても、それでは物語の意味がない。
敦くんはやはり何かしら救われたのだ……と解釈できる話になっている。

どうして救われたのか、と考えるなら、それは、彼が「理不尽」「不条理」だと思っていた苦しみに「理由」を見いだすことができたからだろう、と思うのだった。
その理由が真実であったのかどうかは、本当をいうとはっきりしない。
真実を語ることができる唯一の人間である院長先生は死んでしまったからだ。

が、逆に言うなら、死んでしまったからこそ、こういう話が成立するのだともいえる。
仮に、院長先生が敦くんの前に登場して、実はこういうことだったんですよ……!と語ったとしても、なんというか、うまくいかないような気がするのだった。

とすると、補完されたのは苦しみの理由のみ。
しかも、それさえあくまで苦しんだ本人が、そうだったのだ(そうかもしれない)と推測しただけのことにすぎない。

でも、だからこそ敦くんは救われる。
というか、救いというのはそういうものなのかもしれないのだった。

新ゼロしまむらの場合どうなんだろう……と考えると、彼の受けた苦しみは理不尽ではあったものの、敦くんほど苛烈ではない。だから、そもそもそれ自体をどうにかしなければならない、というほどのエネルギーはなく、特別なエピソードもない。
それでも、その傷はときたま浮上し、彼の行動を理不尽に縛ったりする。

しまむらが孤児で不良だった、というのはもちろん原作の設定だった。
そこで彼があまり幸福ではなかったということは少年鑑別所脱走のエピソードや、ヨミ編エピソードで垣間見ることができる。
が、しまむらの場合、孤児だったのも不良だったのも問題は母の不在を根底においた「孤独」にあるとされている。残酷な仕打ちを受けたという描写はないし、そこはあまり強調されない。

虐待されるよりは、ただ寂しかった、というだけの方がずっとましだろうが、虐待の根底にしずんでいるのもやはりどうしようもない孤独なのだとすると、敦くんが救われたような形でしまむらも救えるのではないだろうか……と思ったりもする。
が、いずれにせよ、「サイボーグ009」はそこにまったく頓着しないのだった。

しまむらにはたぶんトラウマがある。
それを示しつつ、取り除いたり軽くしたりする……ような装置は作品の中で全く働かない。
理不尽は理不尽のまま、孤独は孤独のまま、じわじわとしまむらを苛み続けている。

完結編ラストで、それがお嬢さんによって救われる……ような気もしないでもないのだけど、もしかすると、それもちょっとずれているといえばずれている。
しまむらは、なぜ自分が孤独だったのか、結局のところその理由も意義をも見いだすことなく、ただお嬢さんに「お嫁さんになりたい」と言われ……ってことは、愛されている、と知ることで救われる……みたいな描写になっているのだった。

それはそれでしっかり救いになるのだともいえる。
しまむらはお嬢さんの言葉に満足そうに微笑した。
身もふたもないが、他者が自分を「愛している」と、どんな形で表現しようと、それを信じるかどうかは自分の心次第なのだった。
だから、お嬢さんに愛されていることをしまむらが信じ、納得しなければ、救いはもたらされない。

敦くんが救われたのは、院長先生の仕打ちに「理由」があり、それは自分への「愛情」だったのだ、と認識したからだった。
それなら、完結編しまむらもお嬢さんの「愛情」を認識することによってトラウマから解放された……のかもしれない。

ついでにいうなら、彼の最大のトラウマ、理不尽に受けた苦しみとしては、改造された、ということも決して外せない。
それなら問題はしまむら一人にとどまらない。

新ゼロが放映されていたとき、何かの雑誌の特集の中で、彼らはサイボーグにされたという共通の傷を負っているから、仲間意識が強く、信頼も深い……みたいな説明があった。
それを見たとき、中学生だった私は微妙な違和感を感じたものだった。
同じ傷を持つものだから仲間になれる、というのは友情とか絆のあり方として説得力がありそうであまりない、という気がしたのだった。

実際そのあたり、石ノ森章太郎がどの程度意識していたのかはよくわからないものの、たしかに「サイボーグ009」という作品において、「改造=理不尽な苦しみ」というモチーフは重要なものだ。
だからこそ、彼らが自分の戦闘能力を積極的にちょっと得意げに使いまくる……ような描写があると、それは違うんじゃない?という違和感がファンに生じがちだったりもする。それはそれでわかる。

……が。
もし、「サイボーグ009」に、彼らのそうしたトラウマを主要な問題のひとつとして扱うつもりが本気であったのなら、少なくとも完結編にいたるまで、そのトラウマをどう解消するか、というアプローチについてほとんど何も手当をされていないのがどうもおかしい。彼らの苦しみは理不尽なものではなかった、彼らは(誰かに)愛されている、という方向に向かうエピソードはほとんどない。
前述したように完結編ではその問題が最後にクローズアップされるのだが、もちろん完結編を具体的に作り上げたのは石ノ森章太郎ではない。

もっとも、改造されたという大いなる理不尽を源流として彼らサイボーグチームの「仲間」があるのだとしたら、そのチームワークを描くこと自体が、そのままトラウマ救済になるのかもしれない。要するに、彼らがこの仲間たちに出会うためにはサイボーグにならなければいけなかったのであり、それこそが改造を受け入れる「理由」となり得るからだ。

が、そのようなことをはっきり表現する場面というのも「009」の特に原作にはほぼない。強いていえば、ヨミ編で004がビーナに語る「戦う理由」の中に、仲間のために、彼らと生き延びるために戦うのだ、という気持ちが語られているのが、それに近いかもしれない……ぐらいだと思う。

一方で「サイボーグ009」の原作においては、特に初期、改造は決して理不尽なものでも不条理なものでもなかった。
ギルモアが彼らを改造したときは、「だまされていた」とはいえ、人類の夢を実現する・未来の人類を作るという明確な目的があった。彼らの誕生は悲惨なことではなく栄光に包まれていた。

もちろん、ギルモアがそのように思ったのは「だまされていた」からであり、だまされていたと気づいた瞬間、改造の意味合いは大きく変わる。それは、改造されたサイボーグたちと改造した研究者たちとの認識のズレでもある。それについては、スタート地点からしっかりと描かれている。

敦くんは自分を不条理な苦しみに陥れた院長先生を恐れ憎むが、彼の仕打ちにも自分の苦しみにも理由があり、愛情が根拠にあったのだということを自分の判断として認め、救いを得た。
009たちの場合、院長先生にあたるギルモアは死なず、彼らに改造の理由と愛情をその言動で示そうとする。示そうとするが、実はやっぱり無理なのだ。無理をしているから、ギルモアは常に危うい。
そして、009たちも自分の判断として、自分の心が定めたこととして、ギルモアの愛情を認めることがほとんどない。だからむしろ「見えない糸」のようなエピソードが必要なのかもしれない。

リアルなのはもちろん009たちの方だ。
009の世界も敦くんの世界もどうみても現実ではないが、それでも敦くんの世界ほど009の世界は開き直っていない。
敦くんのトラウマ救済は筋が通っていて明瞭だが、それゆえに現実的ではない。院長先生が何を思っていたのか、結局は誰も語らない。ただ敦くんは想像する。自らの想像が組み立てる世界が、そのまま敦くんの世界になる。009はそれよりももっと猥雑で、すっきりしない。より現実に近いからだと思う。

ちなみに、009たちを本当の意味で改造したのは、作者だともいえる。それなら、石森章太郎ははっきりと宣言している。秋田書店版コミックスの第一巻カバー裏にそれが作者の言葉としてしるされている。
改造は不条理ではなく理不尽でもなかった。石森章太郎は、正義を体現し、悪を懲らすという目的のもと、彼らを英雄たちとして創ったのだ。

が、作者が高らかにそううたい、生み落としたまさにその瞬間、彼らは反旗を翻した。
それに対する答を石森章太郎は示さなかった。示しようがなかったのだともいえる。
生まれた瞬間、創造主の意思を否定するモノたちの創造主で在り続けることはできない。
もしかすると、作者によって完結しない作品宿命はこのとき既に始まっていたのかもしれない。

院長先生の愛情を認めた敦くんのトラウマはたぶん救済された。
が、その彼の表情を作品は描かない。
敦くんはひとりベンチに腰掛け、両手を顔で覆い、うつむいている。たぶん泣いている。
その敦くんから読者の、作者の視点はぐーっと離れる。それ以上は描写しない、読まない、ということだ。
そしてエピソードは終わる。

敦くんも、たぶん反旗を翻したのだ。
こんな救済は認められない。作者の設定した救済を彼もまた否定したのだ。だから、彼の表情は描かれない。描けないのだと思う。

程度の差はあるものの、やはり作者が完全にコントロールできない何かが作中人物に宿るとき、その作品は魅力的なものになっていくのだろうと思う。
私にとって「サイボーグ009」が魅力的なのは、おそらくこのコントロール不能な感じが強いからなのだろうな、と思うのだった。

加速装置を駆使して一方的な破壊を繰り広げるしまむらを「カッコイイ!」と褒め称えるのが読者の立場だ。そして、それを否定し、理不尽な苦しみとするのがしまむらの立場だ。
もちろん、読者は彼を苦しみから救いたいとも思う。が、救えるはずなどない。

しまむらはカッコイイ。だからしまむらは苦しむ。
彼を苦しめているのは作者であり、読者だ。
石森章太郎は、そこをストイックにわきまえていたと思う。作者であることを時に手放してまで、石森章太郎は彼らを救おうとしなかった。

作品としてはたぶん破綻している。
彼らにトラウマを与えた作者は、与えっぱなしで去った。
読者もトラウマの解消を願いつつ、実はそれを許さない。

どーにもすっきりせず、いびつなのだが、おそらく、それが「サイボーグ009」なのだ、と私は思うのだった。