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しまむら映画(2016年) その5 やっぱり宇宙の心にふれたらしい |
しまむら映画第三章を見終わったとき。
私は、隣にてっちゃんがいるのをいいことに、それはもー思いっきり
ガッツポーズを繰り返したのだった!!!!こそこそやりました(汗)<思い切りじゃないのか???
もー。
なにこれ。
なんだったのこれもう。
ありがとうございます私のために!!!!!(真剣)
ってことで。
少しすーはー深呼吸して落ち着いてから思ったのは、
見事な超銀でした(しみじみ)
……ってことで。
いやー。
やっぱすごいわ超銀。
なんかあるとうすうす思ってはいたけど、まさかこんなにすごかったとわ。正直、ムスメの頃は、へんな映画−(汗)と思ってたんだけど、すいませんでした私が未熟者でした(しみじみ)
と、ぶつぶつ言い続ける妻をしばらく黙って見守っていたてっちゃんは、やがて控えめに尋ねたのだった。
めみさん、ちょうぎんってなに?(悩)てっちゃんとしては当然長銀だと思ったんでしょうが、妻に限ってそれはないということももちろんわかっていて(遠い目)
……そうなのだった。
ってことで、あらためて問おうではないか!いややめておいた方が(汗)
超銀って、何だっけ???こら(汗)
……とか思いつつ、こうのとり打ち上げて宇宙ゴミを拾うぞ!とかいうニュースをしみじみ見たりして(しみじみじみ)
もちろん、しまむら映画を作った人たちは、超銀を熟知していた……と思う。いやそうであってほしい。そう思いたい(涙)。そうじゃないとしたらコワすぎ(涙)
そして、井上さんだって、もしかしたら演じつつ、わーそうくるかーやっぱそうかー(汗)と、しみじみしていたかも(悩)
ってことで、あらためて超銀としてのしまむら映画ちょっと(汗)を振り返ってみるのだった!(踊)
まず、平和に暮らしているしまむらたちのもとに、依頼人が来る。
ダベンポートさん=サバくんだけど、しまむら映画は超銀であることをとりあえず隠しているので(え)とっさにそう感じることは難しい。
が、ダベンポートさんは、父のつかんだ秘密をしまむらたちに示し、彼らの助力を求めるのだった!
そして、しまむらたちは、お嬢さんいわく、困っている人がいたら助けるのは当然、という姿勢で、そして人類の危機(倒)いや倒れなくても(汗)を救うために飛び立つのだ!
その後のストーリーも、もうキレイに超銀をトレースしている。
そして、たぶん1981年ではそれでよかったかもしれないけど2016年ではちょっとイマイチというところが改変されているようなのだった。
21世紀のアルベルトさまは原爆なんか使わない。当然です(しみじみ)
で、自分の身を挺して、敵の実働部隊(悩)を止める。
当面の脅威を取り払うのだった。これがアルベルトさまの役目だ。で、元凶を断つのはしまむらの仕事(遠い目)
物語の上で、彼が死ぬ必要は特にないが、自己犠牲を示す必要はある。
人類の脅威たる武器に対峙するしまむらたちサイボーグが、自らも武器であるという自己矛盾を解決する究極の方法は、やはりそこにあるのではないかと思うからだ。
その実行者としてアルベルトさまが選ばれるのは、彼が武器の象徴であることと、彼自身が個人的にだが生きる意味を物語の外、生の外、要するに死者であるヒルダさんにおいているというのがある。
この点は超銀の方がしっかり描いていた。しまむら映画では、むしろ武器の方に重心があったと思う。
問題は、自己犠牲を払う、という意志のみ。本当に死ぬかどうかはそれほど問題ではない。だからこそアルベルトさまは超銀で生き返ってしまった、というか、生き返る、という発想が通ってしまった。
あの復活も、そんな馬鹿な!で終わっていればまだよかったのに、ご丁寧に超銀は地上波公開のとき、じゃ、死んだままにしておく♪ということをやらかして、ファンの激しい怒りを買ったのだった!(踊)
もちろん、ファンとしては彼の命をちゃらんぽらんに扱った、というところに怒ったのだろうが、それはそれとして、実際のところ、生き返らなかった……ってことにしておいた方がやはり感動が増したのかというと、並べてみたら(倒)そういうことも特になかった……ということがわかった、のではないかと思う(考え込み)どうでしょう(悩)
そんなわけで。
死なせて生き返らすよーな手間をかけるぐらいなら、はじめから死を決定づける描写をする必要などないだろう。
アルベルトさまの最後のシーンは自分が生き残ることを全て放棄し、自らの武器は一切自分のために用いない、人類を守るための戦いにのみ使い抜くのだ!という意志を表していたと思う。それで十分なのだった。
あとは、まー米袋が起きてるからな(しみじみ)こら(汗)
ってことで。
サイボーグ側に不要な(倒)死者を出さない、という描写は徹底していた。
生死不明となった002のもとにお嬢さんがバイクを駆ってに駆けつける場面はそれ自体3至上主義者に嬉しい演出だけど、あの場面の一番の意味は、お嬢さんが002を「見つけられなかった」というところにある。もっと率直に言えば、002の「死体」を見つけられなかったということ。
お嬢さんが見つけられないのなら、それは「ない」ということだ。
そして、001は誘拐されたのではなく、自ら敵地に入っていった。
彼自身が仲間に告げたように、だから、009たちは超銀のときのように、彼を助ける必要はないのだった。
いや、最後のサイボーグたちの戦いは001を奪還するのが目的でしょ?と思うけど、戦っているうちになんかみんなソレを忘れてしまっているよーな感じだし(笑)そもそも001自身が、もともと彼らに助けてもらおうなんては最後まで思っていない様子なのだった(倒)
それはそうなのだった。
自分を助けられないのなら、どうせ人類ごと破滅なんだから、米袋にとって、自分の救出などかなりどうでもいい話(遠い目)ほんとやめて米袋(汗)
それなら001は何をしたんだろう……というと、もちろん、しまむらと井上さんつまりゾアをボルテックスへ導いたのだ!!!!!こわいよう(涙)
001は009と別れるときに「君たちにはやるべきことがある」と、課題(倒)を残した。
ってことは001にはもう見えていたのだ。
彼らがそれをきちんと果たし、その上で自分のもとにやってくると。こえーよ米袋(涙)
でもって、004に脅威をつぶしてもらい、001に導かれて、009は井上さんのところに来てしまう。
仲間もどんどん来る。もちろんお嬢さんも来る。
仲間すべてに見守られ、しまむらは堂々、主人公として、ラスボス井上さんとともにボルテックス(倒)に突入するのだ!あーあ(しみじみ)
結局、ボルテックス違う(汗)に耐えられなかった井上さんはゾアのように滅び。
しまむらはよーするに我慢強かったから(倒)生還できた。
しまむらと井上さんの違いはそこだけだったんじゃないかと思う。それ以外の面では全てにおいて(涙)井上さんが圧倒的に優越していたのだ。
が、優越しているから勝利するわけではない。
勝利に必要なものを持っている者が勝利するのだ。
それをしまむらは持っていた。井上さんは持っていなかった。
それは何か?というのが映画のテーマになる。
もちろん、それは我慢強さ(倒)なのだが、なぜしまむらは我慢できるのかというのが問題。大変な問題です(しみじみ)
生還するしまむらの様子を、しまむら映画は描かない。たぶん描く意味があまりないのだと思う。超銀の光るしまむら演説がそれほど効果的だったかというとどうかと思うわけで(悩)
ラスボスとの対決場面は、よくわからない映像としまむらの主観で語られた超銀に対し、しまむら映画では一応、しまむらが何を言いどうしたのか、ということをものすごくシンプルにだが、描いている。
それを見たのは視聴者だけで、お嬢さんたちには何もわからない。
その代わり、しまむらが何を見て、何を感じたのか……そのものではなく片鱗ではあるが、カタリーナさんがお嬢さんに見せてくれた。
かなり不十分な情報ではあるけれど、それを言うなら「僕は戻ってきた」も似たよーなものだと(しみじみ)
そして。
カタリーナさんとしまむらとお嬢さんの関係は興味深い。
単に恋愛の三角関係、というようなものではない。
もっとなんというか、物語の核心に関わる問題となっている。
それは、もちろん、
なぜしまむらは我慢できるのか?
の答でもあるのだった(しみじみじみ)
……ってことで。
それは後に回すとして。大変なので(遠い目)
こうやって考えてみると、しまむら映画はかなり改良された超銀だった……と思うのだけど。
一方で、そうやって考えちゃうと、結局のところ、だいたいの物語は超銀になってしまうのではないか(汗)という気もしたりして(汗)おい(汗)
…………。怖いよう(涙)<だからやめておけってば(嘆)
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