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出口 |
――ここはどこ?
わからない。
――僕は誰?
わからない。
でも、いつかわかる。必ず。
いつかあの人が、僕を呼ぶ。
――人は、一番大切なことは忘れないものよ!
そうだね。
僕は忘れていない。
フランソワーズ。
それが、あの人の名前だ。
倒れた男を振り返る。
壊れた仮面の下の顔を見ようと思えば見ることができるけれど、見たいと思わない。
――なぜ、お前は耐えられるのだ?この孤独に?
耐えられる。
それが、僕の使命だから。
あの人が僕に与えた使命。
そうやって、僕は生きてきた。
もともと、僕は孤独なんかじゃない。
あの人は僕に使命を与え、僕はそれを果たし、帰る。
あの人は、いつもそこにいる。
何も変わらない。
それなら、三千年という時に何の意味があるだろう?
僕は……僕たちは、そうやって生きてきたんだ。
――ほら。
そのときが来た!
三千年か、十億年か、それとも一瞬か。
そんなことに意味はない。
あの人が、そこにいるなら。
僕を、待っているなら。
僕を、呼んでいるなら。
僕の、名前を。
――ジョー!
「加速、装置!」
僕は、何も怖れない。
君が、そこにいる。
「フランソワーズ!」
光を突き破る。
両手を精一杯伸ばす。
指に、柔らかい感触。
あの人の髪だ。
こみあげそうになる涙をぐっとごらえる。
たぶん一瞬の猶予もない……はずだから。
「……ジョー?!」
戻ってきた。
君のところに。
全身が鈍く痛むのは、今の衝撃か、あの戦いの名残か。
あれからどれだけの時がたったのか。
ここはどこなのか。
これからどうするべきなのか。
そんなことはどうでもいい。
君がいる。
君を守る。
ただ、それだけだ。
君を抱きしめる。
君の鼓動を聞く。
君の温度を感じる。
そして。
「ジョー、ジョーなの?!」
――うん。
「どうして……ああ、ジョー、しっかりして!」
――大丈夫だよ。でも……
「もう、どうなってるの?!どうして、よりによって、こんな時に、こんなトコロに戻ってきちゃうの?!」
――だって、君がいたから。
「イワン!……助けて、イワン!聞こえてるんでしょ?!もうっ、どうにかしなさい!!」
「……ダメだ、フランソワーズ……そんな声で……呼んだ……ら……!」
――悪いね、009。僕も003に叱られるのはイヤなんだ。
もっと触れていたいのに。
もっと声を聞きたいのに。
せめて、もう一度、僕の名前を……
――それはメンテナンスが終わってから。言っておくけど結構時間かかるよ?003は大丈夫。もう僕が目を覚ましたからね。
絶対、わざとやったな。
覚えてろよ、イワン……!
目を覚ましたら……絶対……に……
――無理だよ、君は忘れる。いつもそうだもの。
一番大切なこと以外は……ね。
1
「さて……009は大丈夫として、まずは002だ」
「え?!」
驚いて顔を上げた003の腕に001はすうっと降りた。
「大丈夫。彼は生きているよ、003……もうドルフィンのメンテナンスルームに運んだ。博士が大慌てしているけど」
「それっていったい……ア!」
「そう。……でも、君の判断は間違っていなかったよ、あの場では。あそこは事故現場じゃなくて、戦場だったからね。君の力で彼の脳波が捉えられないなら、当座それ以上手のつけようがない。博士の判断も正しかった。あのとき、君を一番必要としていたのは009だったんだ」
「彼は……ジェットは、地下に?」
「ウン。結構しっかり埋まってたけど、致命的なダメージは受けていない」
「……よかった」
胸をなで下ろしながら、003は軽く唇を噛んだ。
001はかばってくれるが、あの現場で002を「発見」できなかったのは、自分に彼を……彼の無残な遺体を「見つける」勇気がなかったからだったのだ。
「……厳しいね、君は」
「イワン……」
「確かに君は弱い。でも、僕には……いや、僕たちには、君のその弱さが必要なんだ。どうしても」
「……」
「もちろん、009にも。だから、彼は大丈夫なんだよ……とにかく君はしばらく休んでいたまえ、003……目が覚めたときは、少なくとも002と004は君のそばにいる。僕が保証しよう。君の役目はそれからだ」
どういうこと?と聞き返す間もなく、003の体からぐらりと力が抜けた。
そのまま浮かび上がった彼女を005がいたわるように抱いた。
「彼女を頼んだよ、005……みんな、ドルフィンに戻りたまえ。ガーディアンズの心配はいらない。急いで機体を応急処置して、とりあえずここを離れよう」
「001?ガーディアンズの心配はいらない……って、どういうことだ?」
眉を寄せた008に、001はちらっと目配せをした。
「エンペラーとの接触は興味深かったよ。弱い力でも効率的に使う方法があることを学んだ」
「……なんだって?」
「とりあえず、イガラシを利用させてもらう。彼はきっと素晴らしい長官になるだろう……北米がしっかりしていてくれれば、僕たちも少しは休ませてもらえそうだよ」
「イガラシを……利用って。まさか」
007はそれきり口をつぐんだ001をまじまじと見つめ、やがて深い息をついた。
「なんてこった……一番恐ろしい御仁が誰なのか、俺たちはいつも忘れてるんだよな……本当に、カタリーナが言ったとおりだ。ジョーだけじゃない、俺たちはみんな、度しがたいお人好しだぜ」
「お人好し、結構なこと……商売の基本もまさにそこアルよ!」
「あー、うさんくさいヤツがここにも一人いやがる」
「何言うか!」
「よせ。……戻るぞ。仕事は山ほどある」
003を抱いた005に促され、006と007は思わず顔を見合わせて肩をすくめた。
たしかに、もうしばらくは休めそうにない。
2
――ハインリヒ。目を覚ませ!
「――何?!」
ハッと目を見開き、004は次の瞬間、息を呑んだ。
「何が……どうなってやがる?!」
「へっ、やっと起きやがった……ったく、寝起きの悪いおっさんだぜ」
「ジェット、お前っ?!」
「残念だが、夢でもねえし、地獄で再会ってわけでもねえ。……行くぞ」
「待て……!この接続を外したら!」
「もう、お前の役目は終わってる。コイツはただの宇宙ゴミだ。最終処分場行きのな。今更ほしがるヤツなんかいやしねえよ」
004からコードを引き抜き、四肢を失った体を抱えると、002はゆっくり移動を始めた。
「このまま地球までテレポートしてくれりゃー造作はないんだが、そこまでの力はないそうだ……ったく、人使いの荒い赤ん坊で参るぜ」
「どういうことだ?いったい何が……」
「心配ご無用。俺にしちゃ珍しく帰りの燃料も残しているからな。で、悪いがもうひと働きしてもらうぜ、004……なあに、たいした仕事じゃねえ。まずはおとなしく脱出用ブースに入ってだな、俺様の手でそいつにつながれるんだ。そうしたらお前さん得意の直接コントロールで発射。なるべく地球の方角に向けてな……あとはスリープモードにダウンだ。楽勝だろ?」
「おい。まさか、そのあと、ブースをお前が運ぶ、なんてつもりじゃ……」
「察しがいいじゃねえか。そういうことさ。うまくコントロールしながら001がテレポートできる距離まで着くころには、俺もスリープモードに入っているから問題ないらしいぜ……簡単に言ってくれるよな」
「こんな馬鹿なまねができる余裕があるってことは……つまり、地上は」
「そういうことだ。終わった。みんな無事だ。エンペラーは009が倒した」
「……何の犠牲もなく、か?」
しばらく沈黙してから、002は静かに口を開いた。
「詳しい事情は知らねえが、カタリーナが死んだそうだ」
「……ミズ・ダベンポートは」
「別れたときにはピンピンしてた。あとのことは知らん。気になるなら自分で確かめたらどうだ?……だとさ。もし聞かれたらこう言っておけと言われた」
「誰に」
「そんなことを言うヤツは、決まってるだろ?」
004は息をつき、うなずいた。
「ああ、そうだな……お前じゃないなら……」
3
わかってるわかってる……と、「注意事項」を重ねて確認しようとする008を適当にあしらい、002は「テスト」のために飛び立った。
「……ったく!知らないぞ、墜落したって」
「ふん、墜落したところで、面倒な思いをするのはお前さんと博士だろ?わかってやってるんだよ、あいつは」
「でもよかったわ……とりあえず、これでひと安心ね。あなたもすっかり回復しているし、イワンも眠ったし……」
「……フランソワーズ?」
「そんなわけでそろそろ休暇をいただきたいですわ、ギルモア博士」
「休暇……じゃと?」
「ええ。……なんて。少しお買い物に行きたいだけなんです。家があんなことになったから……本当をいうと、いろいろ困っていて」
「あ、ああ……なる……ほど?」
ここにも必要最低限の日用品はストックしてあるはずだが……と言いかけたギルモアは、懸命にも口をつぐんだ。
憮然として何か言おうとする004を003は微笑しながら、しかしきっぱりと遮った。
「そんな顔しなくてもいいのよ、アルベルト。ついてきてほしいなんて言ってないわ。一人で行きます。みんなの分もちゃーんと買ってくるから、安心して」
004は肩をすくめてみせた。
「言っておくが、俺の分は必要ない……ここに長くいる気もないしな」
「そう、なの?……ジェットもそんなことを言ってたけど」
「まあ、しばらくは何も起きないだろうし、起きたとしても……それこそガーディアンズがいる。久しぶりにめいめい祖国でゆっくり休ませてもらうさ」
「そう……ね。もともとそうしていたんですものね……もしかしたら、集まったりしたのがいけなかったのかしら、私たち」
「それを言うなら逆だ。何かが起きるような予感があったからこそ、柄にもなく集まって家族ごっこをしたくなったのかもしれないさ」
「家族ごっこ、……だなんて」
顔を曇らせた003をちらっと見やり、008はことさら明るい声を出した。
「やってみたら思ったより悪くはなかったけどね。結構楽しかったよ……でもそれはそれとして、君には確かに休暇が必要だ、フランソワーズ」
そのうち「彼」が帰ってきたら、ますます大変になるんだろうし……と、心で付け加える。
いつになるのか、実際見当はつかないし、唯一の手がかりと思われる001はそれには何も触れないまま眠ってしまった。
心配はしていない。001の言葉は絶対だ。
だが、それですべて納得できるというものでもないだろう。
事象の地平を超えた……という。
どういうことなのか、それもまた見当がつかない。
が、009はそこにいるのだ。今、この瞬間も。それを忘れることなどできない。まして003なら。
ふと物思いにしずみかけた008は、005の気遣わしげな声に目を上げた。
「003。本当に、一人で、大丈夫か?」
「ええ。それに一人でなければ、休暇にならないわ」
「それは……そうだ、が」
005はそれきり口をつぐんだものの、なお注意深く003の表情を覗いた。
いつもの彼女だ……とは思う。
が、何か違和感を感じる。
あの、森で感じた……違和感だろうか?
そんなはずはない、と、005は思う。
そんなことはありえない。
「いつ発つ?小型艇を準備しておかないと」
「できたら明日。……無理かしら」
「まさか。……俺たちをだれだと思ってるんだい?」
「そうね。助かるわ」
003がにっこりするのと同時に、ジェットエンジンの爆音がぐんぐん近づいてきた。
ちょっと耳を澄ました彼女は仲間を見回して、調子はいいみたい、墜落しないですみそうね……とまた笑った。
4
買い物といっても、食料品は006の担当だし、身の回りの消耗品も、個性豊かな仲間たちはそれぞれの好みがうるさく、結局めいめいが気に入ったものを自分でそろえている。003が買いそろえなければならないものは限られていたし、それを素直に使うのもギルモアと001、009ぐらいだった。
ギルモアに新しい寝具を買い、001のための買い物も終えて、003はスポーツ用品店の前でふと足をとめた。009がいつも着ていたブランドのスウェットが目に入ったのだ。
服であれ食べ物であれ、彼に好みを聞いてもまずまともな返事は返ってこない。それでも、本当に何でも同じというわけではないらしく、気をつけて見ていると、すぐに手を伸ばす食べ物や何度も繰り返し着ている服があったりする。
それを用意したからといって、特に感謝の言葉があるわけではない。気づいているのかどうかすらわからない。それでも、彼が少しでも心地よくすごせるなら……少なくとも、自分がそう思って彼を見ていられるのなら……と、003は諦め半分に思うようにしていた。
――君の役目はそれからだ。
001の言葉がよみがえる。
彼が「保証」したとおり、003が再び目覚めたとき、002も004もドルフィンにいた。
どうやって彼らが帰還したかという仲間たちの説明も耳に入らないかのように、003は二人を見るやいなや、ただただ泣いた。
その姿に戸惑いながらとりあえずは後ずさりし、黙って部屋を出ようとした彼らを005が強く押し戻した。
「……彼女だけが、お前たちの最期を見た。聞いた。ずっと泣けなかった。……泣かせてやれ」
はっと顔を見合わせ、歩み寄る二人に003はすがりついた。
代わる代わる抱きしめられ、また涙が流れる。
なぜあんなに泣いたのか、003自身にもよくわからなかった。
これで彼らも当分無茶はしなくなる、と005は笑ったが、子供のように感情を制御できなかった自分がひたすら恥ずかしい。
――人間を遙かに超えた身体能力を持ちながら、感情のくびきから逃れられない。
カタリーナの言うとおりだと、003は思う。
それが人間らしさであるのなら、否定するつもりはない……けれど。
彼女……カタリーナと009はやはり似ていたのだと、003は思わずにいられなかった。
なすべきことが目の前にあるとき、彼の感情がゆらぐのを、003は見たことがない。
私が、どんなに泣いても、呼んでも、あなたは行ってしまうんだわ。
それが……あなたの使命であれば。
――君の役目はそれからだ。
自分に何ができるというのか。
001は何も示さずに眠ってしまった。
私がどんなに願っても、どんなに呼んでも、ジョーは戻らない。
それを誰よりもわかっているのは……私自身なのに。
あの森でもそうだった。
ほんのひととき「生身の人間に戻った」と自覚したときも、009の表情に喜びはついに浮かばなかった。そして、彼はその生身の体のまま、ためらわず戦いの中に身を投じたのだ。
その彼の戦いを見届けたのは自分ではなく、リンカー、と呼ばれた美しいブレスドだった。
私はあなたのようになれない……カタリーナ。
あなたは、きっとあのとき最期の力で私に託したのでしょう。
彼を……理解してあげてほしいと。
……でも。
光に満ちた無音の世界。
同じものをエンペラーも見たという。
その、何物にも感情を動かすことのなかった最強のブレスドが、突然烈しく動揺した。それが反撃の糸口となった。それを反撃の糸口とできたのは、こちら側では誰もが冷静を保っていたからだ。
自分も、そして001も。
恐ろしくはなかった。
ただ……わかってしまった。
あれは私が決して入れない、彼だけの世界。
いいえ。
いいえ、もしかしたら……。
「……カタリーナ」
思わずつぶやきながら、それでもいい、と003は思った。
今、彼の側にいるのが彼女だとしても。
これから永久にそうだとしても。
彼がどこかにいて……そして一人ではないのなら。
それで……いいんだわ。
いつの間にか手にとりかけていたスウェットをそっと手放し、その店を通り過ぎようとした003は次の瞬間、ぎくりと足を止め、振り返った。
「あなた……は!?」
思わず身構える彼女に、モンク=シャラマンは柔らかく微笑んだ。
5
「エンペラーは死んだようだな」
「……はい」
向かい合い、ミルク入りコーヒーをうまそうにすする彼を003はぼんやりと見つめていた。
「森」の中で出会ったときの修行者然とした様子は微塵もなく、ごく普通の身なりをしたごく普通の老人にしか見えない。
「本当をいうと、いつものあのお茶の方がうまいが……たまにはこういうのも悪くない」
「そう……なんですか」
「こだわらないのも、長生きのコツ」
「……あの!」
ためらいながらも、003は彼を見つめ、言った。
「あなたが現れたということは……私が、まだ何かを迷っているということ……なんですか?」
「試して、みるかね?」
手を伸ばすシャラマンに、003は思わず身を固くした。
あのときのように微笑しながら、彼は彼女を優しく見つめた。
「怖いか……?そうかもしれん。ここにあの男はもういない」
「……」
「しかし、もし……これからもずっとそうなら、君はどうするのだ、003。いや、フランソワーズ・アルヌール?」
「待って……ください。教えていただけませんか」
「……何を?」
「あなたがなぜ、私にこんなことをするのかを……偶然会ったなんて、とても思えないわ」
「……なるほど」
シャラマンは静かに両手を引き、またカップを取った。
「……礼、かの」
「……礼?」
「君たちは、多くの人間を救った。たしかに遠からず滅ぶ定めの愚かな生き物どもだろうが……私は、彼らを嫌いではない。彼らとともに滅ぶのもそう悪くないと思うほどには……ありがとう。あのエンペラーをよく止めてくれた」
「それは……それをしたのは、009です」
「いや。あの森で君も見たはずだが?……彼は、一人では戦えなかったではないか」
「え……?」
そんなことはなかった。
彼は、自分も戦う、と飛び出し、005のもとに走って、そして。
「そうか……君は、わかっていなかったのだな。彼が、いつ……機械の体を取り戻したのかを」
「取り戻した……って。そもそも生身の体に戻ったということ自体、全て幻覚だったんじゃないんですか?」
「幻覚……?」
「私が手当した彼の傷は消えていました。傷なんて、はじめからなかったんだわ」
「ほう?……なぜ、そう思う?君はその目で見たはずだが。彼の血を。そして、彼の傷にも触れたはずだ」
「だから、それが幻覚だと!」
「……ふむ」
シャラマンは微笑をたたえたまま、再び003に手をさしのべた。
「やはり、今の君には私の助けが必要なのではないかな?」
「……」
「そう感じたから、私はここに来たのだ。君に、ささやかな礼をするために」
思わず伸ばしかけた手をはっと止め、そのままぎゅっと握りしめると、003は静かに首を振った。
「……どうした?やはり、怖いかね?」
「いいえ。……あなたの能力は、人の心の奥にある迷いを照らし、正しい選択に導くこと……違いますか?」
「違わないとも。その通りだ」
「そして、正しい選択とは、自分の本当の心……本当の望みを見つけること」
「そうだ」
「それなら、私にはもうわかっています。……あの森で思い知りました」
「ほう?……君は戦い続けることを望んでいるのかな?009のように?」
「……違います。私が、望んだのは……ただ」
――ただ、彼の側で生きること。
「私は迷っているんじゃありません。悲しんでいるだけ。私の望みが永久にかなわないということを。それが、はっきりわかってしまったから」
「……」
「きっとあなたは、私がその次に望むことは何かを、教えてくださるんだと思います。でも……その必要はありません。それに、あのときのように私に幻覚を見せて慰める必要も……それを一生続けてくださるのだとしても……ありません」
「……そう、か」
「ご親切には本当に感謝します。ブレスドの多くがあなたのような方であるなら、私たち人間にとってこんなに心強いことはありません。あなたたちと戦わずにすんで、やっぱりよかった」
長い沈黙が続いた。
やがて、テーブルのレシートを取り、一礼して席を立ちかけた003に、シャラマンは不意に語りかけた。
「フランソワーズ・アルヌール……君は、愚かだ」
「……」
「ジョー・島村も愚かだったが、君ほどではない。ここまで愚かな人間は本当に珍しい。だが……それこそが、君のような人間がわずかでもいるということが、私が人間をどうあっても嫌いになれない……エンペラーの計画に加わらなかった一番の理由なのだよ」
どう答えたらいいいかわからなかった。
003は逃げるように席を離れ、会計をすませ……振り向くこともなくその店を出た。
もし振り向いたとしても、シャラマンはそこにはもういないだろうと思った。
6
一瞬、シャラマンの幻覚……?と思った。
それほどまでに、それは唐突に始まった。
鈍い振動と、ガラスが割れる音。
悲鳴。
003はベッドに飛び起きるなり素早く周囲をサーチし、とりあえずテロでも軍事行動でもないことを確認した。階下の方で小規模な火事があったらしい……が、のんびりしていられる状況でもなかった。
手早く身支度を整え、ホテルの誘導に従って非常階段を上がる。
屋上に出ると、細かい雨が降っていた。
次々に集まってきた宿泊客はおびえきった様子で、火の粉を交えて立ち上る黒煙を見つめ、息をのんでいた。
やがて、ホテルの従業員から消火活動は順調に進んでいると説明され、毛布と非常用食料を渡された人々に、わずかに安堵の色が浮かび始めた時だった。新しい轟音とともに、ビルが小刻みに揺れ始めた。
爆発だ、テロだ、ビルが崩れる!……と、あちこちから叫び声が上がった。
大丈夫です、落ち着いてください、という従業員の声が悲鳴にかき消されていく。
その間にも、003はサーチを続けていた。大丈夫です、という従業員の言葉は嘘ではない。消火は確実に進んでいた。
この程度の火災でビルの崩壊などあり得ないし、煙が収まればヘリでの救助が始まるはずだった。心配なのは、人々がパニックに陥ることだが、幸い、ここにいるのは危険な状態になるほどの人数ではない。
一人で宿泊する彼女のためギルモアが慎重に選んだホテルだけのことはあって、非常時の備えも従業員の対応もほぼ完璧だった。
それにしても、火元はどこなのか、原因は……?と探り始めようとした003の耳に、鋭い悲鳴が突き刺さった。
はっと振り向くと、いつのまにかフェンス付近で一組の男女が争うようにもみ合っている。
「危ない……!」
003は思わず駆けだしていた。
女性が男性を振り切り、フェンスを乗り越えようとしたのだ。
「いやあああああっ!……離して、離してーーっ!」
「落ち着いて……大丈夫よ」
ひらりと先にフェンスを越え、女性を正面から抱き留めるようにしながら、003は懸命に彼女の視線を捉えた。
狂気の色はない。一時的なパニックか、それとも男性と何かトラブルでもあったのか。
とにかく、彼女を向こう側に下ろさなければならなかった。
「大丈夫ですかっ?!……あなたも、早く!」
警備員らしい青年が数名駆けつけ、体当たりするようにして女性を捕らえ、フェンスからひきはがしたときだった。ほっと息をつきかけた003の脳裏に、突然、すさまじい光がよぎった。
足下が大きく揺らぎ、次の瞬間、体がふわっと浮き上がる感触……そして。
「――っ!」
叫んだのは警備員か、それとも自分だったのか。
――なんてこと。私、足を滑らせたというの?
数々のすさまじい戦闘をくぐり抜けてきたサイボーグ戦士003……としては失策ともいえないくだらない失態だ……けれど。
これで、私は死ぬの?
まるで普通の女の子のように……。
普通の女の子。そう、ずっとそうなりたいと願っていた。せめて、最期だけでも。
どんなに苦しくても理不尽でも、誰も傷つけることなく、普通の女の子として死ねるなら。
――それが、私の望み?
「……あ!」
003は大きく目を見開いた。
あの、森。
――これが、私の望みだったの?
違う。
違うわ。
私の望みは、ただ、あなたと……!
――ジョー!
あのときと、同じ……!
それが、最後によぎった思いだった。
7
――ここは……どこ?
003はうっすらと目を開けた。
重い……わ。
何かがのしかかっている……押さえつけられている……の?
いいえ……違う。
全身が鈍く痛んでいるが、けがは負っていない。
遠く、火事の喧噪が聞こえる。
身にまとっていた服はあちこちが焼け焦げていた……が、火に巻かれた覚えはない。
何より、あの高さから落ちたはずなのに、どうして……?
ぼんやり考えながらわずかに動く手を懸命に伸ばすと、馴染んだ感触の素材が触れ、003ははっと身を固くした。
まさか。
でも、他にはあり得ない。
003はほとんど悲鳴のように叫んでいた。
「……ジョー?!」
返事はない。が、微かに動いた気配があった。
003は自分が009に堅く抱きしめられたまま倒れていることにようやく気づいた。
瞬時に彼の状態をチェックする。
それは、ほとんど本能に近いほど馴染んだ彼女の習慣だった。
「ジョー、ジョーなの?!」
――うん。
弱々しい脳波が返る。
003は懸命に009の腕から抜け出し、力を失った彼を膝に抱き上げ……思わず上がりかけた悲鳴をかみ殺した。
彼は、かなりのダメージを受けていた。
今受けたものなのか、それともあの戦いで受けたものか。いずれにしても、一刻を争う状態だった。
003は一気に混乱した。
「どうして……ああ、ジョー、しっかりして!」
――大丈夫だよ。でも……
「もう、どうなってるの?!どうして、よりによって、こんな時に、こんなトコロに戻ってきちゃうの?!」
――だって、君がいたから。
わけがわからないわ、ジョー。
こんな状態で戻ってくるなら、どうして私が研究所にいるときに戻ってくれなかったの?あんなに……あんなに待っていたのに!どうして、あなたは……いつも……!
彼を助ける方法は一つしかない。
003は大きく目を見開き、虚空に向かって叫んだ。
「イワン!……助けて、イワン!聞こえてるんでしょ?!もうっ、どうにかしなさい!!」
「……ダメだ、フランソワーズ……そんな声で……呼んだ……ら……!」
かすれた声を残し、ふっと膝の上の重みが消えた。
「――っ!」
――了解したよ、003。009は僕に任せて。それで悪いけれど、君には自力で帰ってほしいんだ、やってもらいたいことがある。
「……どういうこと?」
――買い物の続き。このままだと009が目覚めたとき着るものがない……だから昼間買っておけばよかったのに。
「そんなこと……!そっちにも資材のストックは一通りあるはずよ」
――彼は、君からもらったモノでないと気に入らない。
それきり、ふっつりとテレパシーは途絶えた。
「何なの。何なのよ、もう……!」
003はそのまま両手で顔を覆った。
複数の足音が近づく。
早く立ち上がらないと救急車に運ばれてしまう……と思いながらも、003はしばらく動くことができなかった。

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